川畑文子
川畑文子と聞いてもほとんどの人は知らないと思う
吉田日出子さんが「上海バンスキング」のとき、歌い方を手本にしたという人だ
年代的にはターキーこと水の江滝子さんと同時代
1916年ハワイ生まれの日系人。
2007年1月 91歳で逝去されたそうです
日本のポップス黎明期にあたる昭和8、9年(1933~34)、歌にダンスに大活躍したティーン・アイドルがいた。日系三世、川畑文子である。
大正5年(1916)、岡山県からの移民を父に、ハワイ生まれの日系二世を母にハワイで生まれた文子は、3歳のとき一家でロサンゼルスへ移住。12歳でダンス学校に入学するとめきめきと上達し、13歳には早くも興行会社RKOの専属ジャズ・ダンサーとしてプロ・デビューした。
そんな彼女が母国日本の土を初めて踏んだのは昭和7年(1932)末のことだった。当初はお忍びのつもりのようだったが、米国での文子の活躍ぶりは日本にも伝わっていて、レコード会社や興行会社は彼女をめぐって激しい争奪合戦をくり広げた。結局、獲得にもっとも熱心だったコロムビアと専属契約を結ぶことになった。
コロムビアはさっそく翌年2月、東京劇場で「コロムビア専属芸術家川畑文子帰朝公演」を開催。和製ジャズ・ソングのパイオニアのひとり天野喜久代、高田せい子の高田舞踊団、ジョージ堀の堀タップ・ダンス・チームが全面的にバックアップした。
文子は、靴先を自分の頭より高く上げる得意技“ハイキック”を含むアクロバティックなモダン・ダンスのみならず、タップ・ダンス、バレエ、スパニッシュ・ダンスなど、幅広いレパートリーをこなし、そのいずれにおいても抜きん出た力量を披露した。
帰朝公演の大成功を受けて、文子のダンス・チームは朝鮮の京城にまで足を延ばした3ヶ月にわたる全国公演を展開。文子の名声は一躍日本国中に高まった。
そして、昭和8年(1933)の大晦日に、文子は東洋一の演劇の殿堂として東宝が有楽町に新築した日本劇場のこけら落としのステージの主役に抜擢された。「踊る1934年」と題されたレビューには、天野喜久代、ジョージ堀、文子のダンス・パートナー白幡石蔵、文子を頼って来日したベティ稲田らが参加した。
文子の歌はマレーネ・ディートリヒになぞらえられたというが、声に伸びはなく、音程は不安定、無愛想で投げやりなうたい口調はお世辞にもうまいとはいえない。しかし、この危なっかしくてさばさばした感じがタドタドしい日本語の発音とあいまって、えもいわれぬ魅力につながっていた。昭和初期のジャズ・ソング・ブームの立役者だった浅草オペラ出身の二村定一や天野喜久代などが声を張り上げうたっていたのとは対照的に、文子の歌にはメランコリーが宿っていてモダンな印象を受ける。
文子の英語調の日本語の発語はディック・ミネの唱法のヒントになっただろうし、日本語と英語をチャンポンでうたうスタイルは戦後、江利チエミや雪村いづみに引き継がれたという意味で、川畑文子がそのわずかな活動期間において日本のポップスに与えた影響ははかりしれない。
こんな歌い方
こんな本に詳しい
吉田日出子さんが「上海バンスキング」のとき、歌い方を手本にしたという人だ
年代的にはターキーこと水の江滝子さんと同時代
1916年ハワイ生まれの日系人。
2007年1月 91歳で逝去されたそうです
日本のポップス黎明期にあたる昭和8、9年(1933~34)、歌にダンスに大活躍したティーン・アイドルがいた。日系三世、川畑文子である。
大正5年(1916)、岡山県からの移民を父に、ハワイ生まれの日系二世を母にハワイで生まれた文子は、3歳のとき一家でロサンゼルスへ移住。12歳でダンス学校に入学するとめきめきと上達し、13歳には早くも興行会社RKOの専属ジャズ・ダンサーとしてプロ・デビューした。
そんな彼女が母国日本の土を初めて踏んだのは昭和7年(1932)末のことだった。当初はお忍びのつもりのようだったが、米国での文子の活躍ぶりは日本にも伝わっていて、レコード会社や興行会社は彼女をめぐって激しい争奪合戦をくり広げた。結局、獲得にもっとも熱心だったコロムビアと専属契約を結ぶことになった。
コロムビアはさっそく翌年2月、東京劇場で「コロムビア専属芸術家川畑文子帰朝公演」を開催。和製ジャズ・ソングのパイオニアのひとり天野喜久代、高田せい子の高田舞踊団、ジョージ堀の堀タップ・ダンス・チームが全面的にバックアップした。
文子は、靴先を自分の頭より高く上げる得意技“ハイキック”を含むアクロバティックなモダン・ダンスのみならず、タップ・ダンス、バレエ、スパニッシュ・ダンスなど、幅広いレパートリーをこなし、そのいずれにおいても抜きん出た力量を披露した。
帰朝公演の大成功を受けて、文子のダンス・チームは朝鮮の京城にまで足を延ばした3ヶ月にわたる全国公演を展開。文子の名声は一躍日本国中に高まった。
そして、昭和8年(1933)の大晦日に、文子は東洋一の演劇の殿堂として東宝が有楽町に新築した日本劇場のこけら落としのステージの主役に抜擢された。「踊る1934年」と題されたレビューには、天野喜久代、ジョージ堀、文子のダンス・パートナー白幡石蔵、文子を頼って来日したベティ稲田らが参加した。
文子の歌はマレーネ・ディートリヒになぞらえられたというが、声に伸びはなく、音程は不安定、無愛想で投げやりなうたい口調はお世辞にもうまいとはいえない。しかし、この危なっかしくてさばさばした感じがタドタドしい日本語の発音とあいまって、えもいわれぬ魅力につながっていた。昭和初期のジャズ・ソング・ブームの立役者だった浅草オペラ出身の二村定一や天野喜久代などが声を張り上げうたっていたのとは対照的に、文子の歌にはメランコリーが宿っていてモダンな印象を受ける。
文子の英語調の日本語の発語はディック・ミネの唱法のヒントになっただろうし、日本語と英語をチャンポンでうたうスタイルは戦後、江利チエミや雪村いづみに引き継がれたという意味で、川畑文子がそのわずかな活動期間において日本のポップスに与えた影響ははかりしれない。
こんな歌い方
こんな本に詳しい

内容はともかくどうも ...
楽しくて、深いメッセ ...
副産物にしておくには ...
この記事へのコメント