悶え神さま
「しゅうりり えんえん」 (ワグネル男声・第131回定演)
あやとりの記 前奏曲 家移り 混声合唱団コールクライス
朗読+音 「苦海浄土」 1 @オルガン座
石牟礼道子「最後の人」は単行本と全集第17巻とほぼ同時に出版されたのかな
その「最期の人 補」の文章にこんなのがあります
私の子どもの頃にもはこんな人がいたようきがするな
「身近な水俣を中心に考えてみても、不知火海海域の各地に、声を潜めて畏れ敬うように「あのひとはまんまんさまぞ」とか、「悶え神さま」とか呼ばれる人々が居る。前者を、自己顕示競争ただならぬ現在のまっただ中に連れてくるならば、うすらバカといわれそうな生まれつきの人を、まだわたしどもの田舎では、「まんまんさまよ」と敬い、辛うじてかばっている。この気風とて、水俣病事態で一挙に粉砕されつつある。
悶え神とは、自身は無力無能であっても、ある事態や生き物たちの災禍に、全面的に感応してしまう資質者のことである。 この世はおおむね不幸であるが、ことに悲嘆のきわみの時に悶え神たちが来て、共に嘆き悲しみ加勢してくれた(饒舌の意味ではない)ことを、悲嘆の底に落ち込んだことのあるものは、生涯のよき慰めとする。その悶え神とは、ただじっと涙をためて寄り添ってくるまんまんさまであったり、背中を黙って撫でて去る老婆であったり、憂わしげに、片隅から見上げている、いたいけな幼女であったりする。そして、我が身も不幸を負っているものである場合もある。
神話伝説の神々に片輪者が多いのもこういう謂われを含んでのことと思われるが、それはなぜなのか。
「うすらバカ」や「片輪」を神にするのは、言うまでも無くこれを超俗者として復活させたいためで、そのように願うのは人々の中にある悶えの意識と思われる。ここで大切なのは、両者の間にある絶対無償の関係である。あるがままの存在のすべてを黙って大切にする、いやいや、役目を持たせて大切にする、そういう世界なのであった。
現実には社会の脱落者、生活無能者とされるこの種の人々を、目障りとして葬り始めたのが、いわゆる近代市民社会であった。そしてこのような非情の時代になってきたとき、絶対弱者たちの意識の表現者、聖痕を負う者の悶えの表現者は詩人でなければならないと彼女は考えていた。なぜなら詩人たるものの唯一の取り柄といえば、「巷を歩けば千の矢が突き刺さり」、風にも耐え得ぬ魂を抱いていることだけである。
人は私の姿を指さして
あの泥にまみれている
女のきちがいをご覧なさいと
大声をあげて罵った (女詩人の物語「放浪者の詩」) 」
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この本は刊行後すぐに図書館で予約したが、すぐに手に入った
石牟礼道子さんは北海道ではあまり人気が無いようだ
あやとりの記 前奏曲 家移り 混声合唱団コールクライス
朗読+音 「苦海浄土」 1 @オルガン座
石牟礼道子「最後の人」は単行本と全集第17巻とほぼ同時に出版されたのかな
その「最期の人 補」の文章にこんなのがあります
私の子どもの頃にもはこんな人がいたようきがするな
「身近な水俣を中心に考えてみても、不知火海海域の各地に、声を潜めて畏れ敬うように「あのひとはまんまんさまぞ」とか、「悶え神さま」とか呼ばれる人々が居る。前者を、自己顕示競争ただならぬ現在のまっただ中に連れてくるならば、うすらバカといわれそうな生まれつきの人を、まだわたしどもの田舎では、「まんまんさまよ」と敬い、辛うじてかばっている。この気風とて、水俣病事態で一挙に粉砕されつつある。
悶え神とは、自身は無力無能であっても、ある事態や生き物たちの災禍に、全面的に感応してしまう資質者のことである。 この世はおおむね不幸であるが、ことに悲嘆のきわみの時に悶え神たちが来て、共に嘆き悲しみ加勢してくれた(饒舌の意味ではない)ことを、悲嘆の底に落ち込んだことのあるものは、生涯のよき慰めとする。その悶え神とは、ただじっと涙をためて寄り添ってくるまんまんさまであったり、背中を黙って撫でて去る老婆であったり、憂わしげに、片隅から見上げている、いたいけな幼女であったりする。そして、我が身も不幸を負っているものである場合もある。
神話伝説の神々に片輪者が多いのもこういう謂われを含んでのことと思われるが、それはなぜなのか。
「うすらバカ」や「片輪」を神にするのは、言うまでも無くこれを超俗者として復活させたいためで、そのように願うのは人々の中にある悶えの意識と思われる。ここで大切なのは、両者の間にある絶対無償の関係である。あるがままの存在のすべてを黙って大切にする、いやいや、役目を持たせて大切にする、そういう世界なのであった。
現実には社会の脱落者、生活無能者とされるこの種の人々を、目障りとして葬り始めたのが、いわゆる近代市民社会であった。そしてこのような非情の時代になってきたとき、絶対弱者たちの意識の表現者、聖痕を負う者の悶えの表現者は詩人でなければならないと彼女は考えていた。なぜなら詩人たるものの唯一の取り柄といえば、「巷を歩けば千の矢が突き刺さり」、風にも耐え得ぬ魂を抱いていることだけである。
人は私の姿を指さして
あの泥にまみれている
女のきちがいをご覧なさいと
大声をあげて罵った (女詩人の物語「放浪者の詩」) 」
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この本は刊行後すぐに図書館で予約したが、すぐに手に入った
石牟礼道子さんは北海道ではあまり人気が無いようだ



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