ダーチャ・マライーニ
ノーベル賞候補になったダーチャ・マライーニさんの記事が今日の道新に大きく取上げられていますね。
ちょうど読んでいた「日米交換船」にもちょっと記載がありますので一部紹介します。
・レーン夫妻の友人フォスコ・マライーニは、終戦によって日本での抑留から解放され、翌46年2月、家族5人でイタリアへ帰国した。
マライーニの長女ダーチャは、イタリアでの成人後、著名な作家、劇作家、また、いささか戦闘的にして奥息のあるフェミニストとなった。だが、それは、さらにしばらくの時が過ぎてからのことである(マライーニ一家の日本からの帰国の日、「レーン夫妻事件」で3年10ヶ月にわたって獄につながれた元北大生・宮沢弘幸と9歳のダーチャが並んで撮影された、両家族の記念写真が残っている。獄中で痛めつけられた宮沢は、このあとまもなく早世する)。
・「話をダーチャに戻せば、彼女が日本について知っているのは収容所だけだったのだよ。というのは、戦争が終るとすぐ、マライーニ家は日本を去って帰国してしまったのだから。不思議なことに、これは監禁生活による精神外傷のせいだとおもうが、日本語、さらに京都弁さえもちゃんと話していたダーチャが、イタリアへ着いた途端に、それを何もかもすっかり忘れてしまったのだそうだ」(モラビア自伝)
・だが7歳の少女が空腹のまま2年近くを過した収容所での生活は、言語ではなく、彼女の中に、生身の人間と政治的なるものが織りなす一種の劇として生き続けた。それは、彼女のなかの尽きせぬ井戸であり、また、母胎にもにた狭い部屋だったろう。
先頃も、日本で、彼女の「メアリー・スチュアート」が上演された(2005年11月、演出・宮本亜門、出演・原田美枝子・南果歩・東京PARCO劇場)。
・シチリア島バゲリーアで、時間の饐えた匂いを放っていた、母の血脈をなす貴族たちの朽ちかけた屋敷。また思い出す。日本の収容所で、飢えながら両親たちが話していた「喉の勝利」という甘い菓子のこと。---栄養失調で麻痺した脚を引きずり、ひそめた声で母は言っていた。「ピスタッキオのゼリーに砂糖漬のオレンジと甘いリコッタチーズ、干し葡萄、粒チョコレートを混ぜた、小山のような緑色のお菓子よ」
収容所の寝床の暗闇の中で、両親が譲らず口論するのを聞いていた。---「政治になんの関係も無い幼い娘たち」が巻添えになるとは考えもせずに、ファシストたちの傀儡共和国政府への忠誠の署名を拒否したが、それは正しかったろうか・・・。二人とも子どもみたい、と幼いかの女自身は思っていたのだが。
それでも、この娘は、ハンサムな父親のことが大好きなあまり、事実をちょっぴり激化しすぎているのかもわからない。当のフォスコ・マライーニ自身は、ただ、いくらか注意深く控えめな声で、こんなふうに当時を思い出す。
「・・・やはり飢えを知らない者に、飢えがどんなものかはわからない。辞書に載っている言葉にすぎず、自分の内にある苦しみではないのだ」
この父親は、戦後もたびたび日本を訪れて滞在し、87年からの1年間は京都の国際日本文化研究センター客員教授をつとめた。2004年、91歳で死去している。
この「日米交換船」にはレーン事件関連についての話が多すぎるほどの分量で載っているが、著者に特別の関心があったのでしょうか。
この本は知られなかった戦争の一面を探ったもので、お薦めです。
ちょうど読んでいた「日米交換船」にもちょっと記載がありますので一部紹介します。
・レーン夫妻の友人フォスコ・マライーニは、終戦によって日本での抑留から解放され、翌46年2月、家族5人でイタリアへ帰国した。
マライーニの長女ダーチャは、イタリアでの成人後、著名な作家、劇作家、また、いささか戦闘的にして奥息のあるフェミニストとなった。だが、それは、さらにしばらくの時が過ぎてからのことである(マライーニ一家の日本からの帰国の日、「レーン夫妻事件」で3年10ヶ月にわたって獄につながれた元北大生・宮沢弘幸と9歳のダーチャが並んで撮影された、両家族の記念写真が残っている。獄中で痛めつけられた宮沢は、このあとまもなく早世する)。
・「話をダーチャに戻せば、彼女が日本について知っているのは収容所だけだったのだよ。というのは、戦争が終るとすぐ、マライーニ家は日本を去って帰国してしまったのだから。不思議なことに、これは監禁生活による精神外傷のせいだとおもうが、日本語、さらに京都弁さえもちゃんと話していたダーチャが、イタリアへ着いた途端に、それを何もかもすっかり忘れてしまったのだそうだ」(モラビア自伝)
・だが7歳の少女が空腹のまま2年近くを過した収容所での生活は、言語ではなく、彼女の中に、生身の人間と政治的なるものが織りなす一種の劇として生き続けた。それは、彼女のなかの尽きせぬ井戸であり、また、母胎にもにた狭い部屋だったろう。
先頃も、日本で、彼女の「メアリー・スチュアート」が上演された(2005年11月、演出・宮本亜門、出演・原田美枝子・南果歩・東京PARCO劇場)。
・シチリア島バゲリーアで、時間の饐えた匂いを放っていた、母の血脈をなす貴族たちの朽ちかけた屋敷。また思い出す。日本の収容所で、飢えながら両親たちが話していた「喉の勝利」という甘い菓子のこと。---栄養失調で麻痺した脚を引きずり、ひそめた声で母は言っていた。「ピスタッキオのゼリーに砂糖漬のオレンジと甘いリコッタチーズ、干し葡萄、粒チョコレートを混ぜた、小山のような緑色のお菓子よ」
収容所の寝床の暗闇の中で、両親が譲らず口論するのを聞いていた。---「政治になんの関係も無い幼い娘たち」が巻添えになるとは考えもせずに、ファシストたちの傀儡共和国政府への忠誠の署名を拒否したが、それは正しかったろうか・・・。二人とも子どもみたい、と幼いかの女自身は思っていたのだが。
それでも、この娘は、ハンサムな父親のことが大好きなあまり、事実をちょっぴり激化しすぎているのかもわからない。当のフォスコ・マライーニ自身は、ただ、いくらか注意深く控えめな声で、こんなふうに当時を思い出す。
「・・・やはり飢えを知らない者に、飢えがどんなものかはわからない。辞書に載っている言葉にすぎず、自分の内にある苦しみではないのだ」
この父親は、戦後もたびたび日本を訪れて滞在し、87年からの1年間は京都の国際日本文化研究センター客員教授をつとめた。2004年、91歳で死去している。
この「日米交換船」にはレーン事件関連についての話が多すぎるほどの分量で載っているが、著者に特別の関心があったのでしょうか。
この本は知られなかった戦争の一面を探ったもので、お薦めです。


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