戦前の歌謡 その628 三原純子
真昼の丘 三原純子 1943 サトウハチロー:作詞、奥山貞吉:作曲
南から南から 三原純子 藤浦洸作詞・加賀谷伸作曲・高木東六編曲
大陸夫婦行進(松平 晃・三原純子) 1941 タイヘイレコード
帰ろう帰ろう漢口へ 1939 歌唱 高橋文夫 三原純子 タイヘイレコード
花の北京(三原純子) 1941 タイヘイレコード 作詞:東かほる 作編曲:細田義勝
「三原純子」は920年(大正9年)岐阜県飛騨高山の白川郷生まれ。昭和14年19歳の時、タイヘイ・レコードの専属歌手になる。松竹映画の俳優・三原純にあやかって、芸名を三原純子とした。本名は黒田粋子
デビュー曲は「帰ろう帰ろう漢口へ」で、次には立花ひろしとデュエットで「さらば港よ」を歌い、「出島の雨」「乙女よ朗らかに」「さらば東京」「大空に祈る」「花笠おどり」「突撃喇叭鳴り渡る」「固い約束」など40曲ばかりレコーディングしましたが、昭和17年にキングレコードに移籍してからは、「点数の歌」を出しただけで、コロムビアに移りました。
大映映画「歌う狸御殿」に出演、それの主題歌「月の小島」で初のコロムビアでのレコーディングでしたが、此の歌が「楠木繁夫」とのデュエットであり、昭和18年12月8日に結婚。楠木繁夫39歳、三原純子23歳でした。
戦後も夫婦で巡業していたが、楠木は大変な酒豪であり、又二人は戦時中から覚醒剤の「ヒロポン」を常用していたために、徐々に身体は蝕まれて行った。
昭和31年まで活躍していたが、音楽家から感染した肺結核が悪化し、夫の楠木繁夫も酒とヒロポン中毒で脳溢血で倒れ、妻の三原純子は肺結核が進行したために、故郷に転地療養をした。別居を強いられた「楠木繁夫」は寂しさと前途を悲観して、昭和31年12月14日に新宿牛込の自宅で梁に渡した縄で首つり自殺をした。52歳
最愛の伴侶の夫の死の心の影響は大きく、昭和33年に夫の後を追うように38歳の短い生涯を閉じた。
1977年には、三原の故郷・飛騨高山に「楠木繁夫」と「三原純子」を偲ぶ比翼塚が建てられた。夫妻の良き理解者であった古賀政男は最晩年に病身をおして、この碑を訪れた。(wikipediaによる)
南から南から 三原純子 藤浦洸作詞・加賀谷伸作曲・高木東六編曲
大陸夫婦行進(松平 晃・三原純子) 1941 タイヘイレコード
帰ろう帰ろう漢口へ 1939 歌唱 高橋文夫 三原純子 タイヘイレコード
花の北京(三原純子) 1941 タイヘイレコード 作詞:東かほる 作編曲:細田義勝
「三原純子」は920年(大正9年)岐阜県飛騨高山の白川郷生まれ。昭和14年19歳の時、タイヘイ・レコードの専属歌手になる。松竹映画の俳優・三原純にあやかって、芸名を三原純子とした。本名は黒田粋子
デビュー曲は「帰ろう帰ろう漢口へ」で、次には立花ひろしとデュエットで「さらば港よ」を歌い、「出島の雨」「乙女よ朗らかに」「さらば東京」「大空に祈る」「花笠おどり」「突撃喇叭鳴り渡る」「固い約束」など40曲ばかりレコーディングしましたが、昭和17年にキングレコードに移籍してからは、「点数の歌」を出しただけで、コロムビアに移りました。
大映映画「歌う狸御殿」に出演、それの主題歌「月の小島」で初のコロムビアでのレコーディングでしたが、此の歌が「楠木繁夫」とのデュエットであり、昭和18年12月8日に結婚。楠木繁夫39歳、三原純子23歳でした。
戦後も夫婦で巡業していたが、楠木は大変な酒豪であり、又二人は戦時中から覚醒剤の「ヒロポン」を常用していたために、徐々に身体は蝕まれて行った。
昭和31年まで活躍していたが、音楽家から感染した肺結核が悪化し、夫の楠木繁夫も酒とヒロポン中毒で脳溢血で倒れ、妻の三原純子は肺結核が進行したために、故郷に転地療養をした。別居を強いられた「楠木繁夫」は寂しさと前途を悲観して、昭和31年12月14日に新宿牛込の自宅で梁に渡した縄で首つり自殺をした。52歳
最愛の伴侶の夫の死の心の影響は大きく、昭和33年に夫の後を追うように38歳の短い生涯を閉じた。
1977年には、三原の故郷・飛騨高山に「楠木繁夫」と「三原純子」を偲ぶ比翼塚が建てられた。夫妻の良き理解者であった古賀政男は最晩年に病身をおして、この碑を訪れた。(wikipediaによる)





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